関口裕子,「日本古代婚姻史の研究」


東京:東京大学文学博士,1994.9.12。


審查委員:佐藤信、五味文彦、岸本美緒、月本雅幸、義江彰夫


論文摘要


 本論考は日本古代の婚姻の発展段階が、現在行われている単婚より以前の対偶婚と呼ばれる段階のものである点を論証すると共に、そのような対偶婚下の婚姻居住規制がどのようなものであったかを検討したものであり、前者については、[I]「婚姻の本質」で、後者については、[II]「婚姻の具体的形態」でそれぞれ考察を行っている。なお本論考の最初に序論として「古代家族と婚姻形態」をおき、婚姻の考察に先立って、日本古代の家族のおおよその見通しを婚姻のあり方を含めて述べ、日本古代の家族の発展段階が家父長制〓〓のものであること、その具体的形態は父系合同家族でも父系直系家族でもなく、初めからの核家族と、母系直系ないし合同家族を経た核家族の併存であったことを指摘しておいた。

 以下、[I]と[II]のそれぞれについて、その主旨を原則として章ごとに要約する。

 先ず、[I]「婚姻の本質」を取り上げる。第一編「対偶婚概念の理論的検討」の第一~三章では、従来の対偶婚の主要な説である、モルガン、エンゲルス説を紹介、考察すると共に、その問題点-集団婚並びに個人的性愛の存否-を検討し、それを踏まえて、個人的性愛の存在を包摂する形での対偶婚概念の再定義を私なりに行った。そこから引き出された結論は、対偶婚はモルガン、エンゲルスの主張するように、未開段階における、所有形態での共有とその下での占有、「家族」形態での氏族とその下での萌芽的家族、と照応する婚姻であり、したがってそれは文明段階での私有・家父長制家族・単婚の前段階に属するものである点、集団婚とは異なり、すでに一対一の男女の結合は成立しているが、しかしその結合はゆるやかで持続性に欠け、したがって配偶者以外の異性に必ずしも閉ざされていない性のあり方と、気の向く間だけ継続する結婚という二大特徴を持つと共に、未熟なものであれ個人的性愛が存在した点、日本のように単系制、外婚制を欠く社会では、それらを採用する社会に比べて萌芽的個人的性愛が発現しやすい点、などである。

 以上のようにモルガン、エンゲルスの対偶婚理論の批判的検討を経て再定義された対偶婚が、日本古代において存在した事実を、当時の史料から具体的に実証したのが、第二編〓日本古代における対偶婚の存在と具体相」である。

 まず第一章「必ずしも閉ざされていない配偶者の性の在り方」では、対偶婚の二大特徴の一つであるかかるあり方が、古代日本にみられた点を、当時の人妻は夫の他に性関係を伴う恋人をもちえたこと、当時女性が複数の男性と性関係をもつ例は希ではないこと、当時の日本には姦通に相当する概念がなく、したがって姦通に相当する言葉もなかったこと、の三点に渉り考察した。

 第二章「日本古代における『姦』について」では、第一章での結論のように日本古代に姦通が不在であるとすると、当時の史料にかなりの頻度で現れる「姦」が何を意味するのかが当然問題になるはずであり、それを明らかにするために八世紀末までの姦の全史料を取り上げ考察を加えた。その際、日本古代の姦の具体的考察に先立ち、日本の姦概念成立の前提となった、中国社会での姦概念がどのようなものであるかを瞥見すると、中国での〓〓は、正規の婚姻が、主婚=家長の許可ならびに、家父長制家族相互間の自律的秩序の一つたる六礼に基づく婚姻儀礼を経るものであるのに対し、その両者をともに欠く男女の性結合のことで、そこには明確に家父長制家族(単婚)の原理が貫ぬかれている。ところが当時の日本はまだ家父長制家族・単婚成立以前の社会であり、中国の姦概念をそのまま受容することは不可能だった。そこで日本では、姦概念を禁止された性関係への違反へと組みかえることにより、日本独自の姦概念を創出したのである。その際、人妻への性関係も日本的姦の一つとされたが、それは日本古代に姦通が存在したことを示すのではなく、人妻への性関係は、当時すでに道徳的違反であると考えられたために姦の中の一項として入れられたのである。しかし道徳の次元に留まるとはいえ、人妻の性関係が違反とされる(夫の性関係は違反とされない)点で、当時の日本はすでに対偶婚の後期段階に属していたと考えられるのである。

 次に第三章「気の向く間のみ継続する結婚とその下での諸事象」では当時の結婚(性関係)が当事者双方が好きになれば結婚し、いやになれば離婚するという、流動的、非持続的なものであった点を当時の史料から実証した。そしてその上さらに、(一)当事者の意向による結婚、離婚というあり方からは当然、当時の女性による自らの結婚決定権、離婚権、(求婚権も)の保持がいえること、(二)女性の意向による結婚というあり方は、当時の女性が自分の意向に反した性結合を拒否できることを意味し、したがって今日の強姦に当たる社会事象は存在しなかったこと、の二点を当時の史料から具体的に立証した。ところで当時、女性の意向に反する性結合が社会的慣行として不在であった事実は当然、当時の社〓には、女性の意向に反した性結合の最たるものである買売春(本論考では一貫してこの用語を使用する)もまた不在であることを意味するはずだが、実際に、当時の日本には買売春がいまだ未成立であった事実が当時の史料の解読からいえる点を最後に論じた。

 第四章「日本古代の性愛の特徴」では、対偶婚下の性愛が、男女対等性、非持続性、気にいる異性の範囲が広い等の特徴をもつこと、及び平安貴族の性愛の理念として名高い「色好み」とは、対偶婚と単婚の重層性下に生じた独自の性愛のあり方であることを論じた。

 第三編「対偶婚から単婚へ」は、第二編でみた対偶婚下の諸事象が単婚への移行に伴いどのように変化したかをみたものである。まず第一章「対偶婚から単婚へ移行の前提」では、日本社会においては、家父長制家族が九世紀の初めから形成され始め、十世紀初頭には貴豪族層、十二世紀初頭には一般庶民層でも明確に成立していたこと、及びこのような経済的な要因とは別に、政治的な要因に規定された家父長制が、日本では王権を中核として早期に出現することを考察、叙述した。

 第二章「対偶婚から単婚への移行の実態」では、対偶婚下にみられた、必ずしも閉ざされていない妻の性のあり方、結婚の非持続性、女性による結婚決定権・求婚権・離婚権の保持、女性の意向を無視した性結合の不在、買売春の未成立という諸事象が、婚姻の発展段階が対偶婚から単婚への移行することにより消滅し、妻の性の夫以外の異性に対する閉鎖の開始(=姦の発生)、儀式婚の開始による結婚の固定化・永続化、女性による結婚決定権・求婚権・離婚権の喪失、女性の意向を無視した性結合の一般化(=強姦の一般的発生)、買売春の成立という諸事象がそれに取って代わる状況を概観した。

 次に附論I「律令国家における嫡妻・妾制について」では、古代の史料に見られる嫡妻と妾の用語は、何ら実態としての嫡妻と妾の別が存在したことを意味せず、むしろ逆に嫡妻と妾の機械的な書き分けの中にこそ、当時の嫡妻と妾の区別の不在が示されている点を考察し、かかるあり方こそ単婚(そこでは一人の夫に対し一人の妻が決っている)以前の対偶婚にふさわしい点を主張した。

 附論II「大化二年三月甲申詔での対偶婚的様相」では、当詔中に含まれる"婚姻習俗の禁止に関する諸項"を主に考察対象とし、そこで取り上げられている女性の再婚に際しての前夫から後夫への財物要求、新婚夫婦や再婚する寡婦に対する祓除の要求などの事柄が、全て対偶婚下において問題化するのに適合的な諸事象であることを考察した。

 大きく[I]、[II]の二部にわけた、[II]「婚姻の具体的形態」は、日本古代の婚姻居住〓制の実態を明らかにすることを目的としたものである。

 第一章「婚姻居住規制の研究史」ではまず、婚姻居住規制をめぐるこれまでの研究史の要約を行い、従来の主要な説として夫方居住婚説、妻方居住婚説、新処居住婚説がある点、しかしこれら諸説によっては、日本古代の諸史料から析出される婚姻居住規制の種々相を完全には説明できない点を指摘した。

 そこで第二章「婚姻居住規制の実態」では、私なりに日本古代の婚姻居住規制の実態を追求し、当時の日本ではすでに在地有力層では、遠隔婚並びに女の身分が男より低いという特定の条件下では、夫方居住婚が行われる点(しかもその場合夫の両親とは決して同居しない点)、しかし一般的な婚姻居住規制は、初めからの新処居住婚と、妻方居住婚を経た新処居住婚の併存である点を考察した。

審查摘要


 関口裕子氏の論文『日本古代婚姻史の研究』は、日本古代の婚姻のあり方を対偶婚の歴史的段階ととらえ、その具体的形態と日本的特徴を多様な史料的検討から明らかにし、日本古代史における婚姻史の研究を前進させた、意欲的な研究成果である。

 序論「古代家族と婚姻形態」は、家族と婚姻の歴史的発展段階の上で日本古代の婚姻を対偶婚段階と位置付け、以下の論旨を総括的に概観している。

 [I]「婚姻の本質」の第一編「対偶婚概念の理論的検討」では、モルガン、エンゲルス説を修正し、対偶婚の定義を、共同体共有下における男女対等の占有権を基礎として、a排他的同棲の欠如、b気の向いた間のみ継続する結婚、c個人的性愛の萌芽的存在といった特徴が、共同体的制約下に存在する婚姻とする。そして、共同体規制が緩い日本古代の対偶婚の特徴として、萌芽的性愛が表に現われ、妻の性が配偶者以外にも完全には閉ざされないことなどを指摘する。積極的な婚姻の理論化は、評価されるものであろう。

 第二編「日本古代における対偶婚の存在と具体相」では、高群逸枝の招婿婚説を批判・継承しつつ、豊富な史料的検討の上に日本古代の対偶婚の諸特質を明らかにする。まず、妻の性が配偶者以外にも必ずしも閉ざされておらず、従って姦通が存在しなかったことを指摘し、家父長制家族を前提としない日本的姦を、幅広い性関係禁止への違反として位置付ける。また気の向く間のみ継続する結婚の諸相として、男女双方がもつ結婚=性関係決定権、女性の合意を必要とした性結合、買売春の不在などを指摘する。さらに日本古代の姓愛の特徴として、男女対等性、非持続性、非排他性、制度的結婚の不在などを検証する。全体として、古代婚姻像の具体化に多くの成果を収めているといえよう。

 第三編「対偶婚から単婚へ」では、王権が早熟的に単婚を導入したのち、一〇世紀以降に支配階級からはじまって対偶婚から単婚へと移行した歴史的展開をまとめる。それが婚姻の後退を意味するのか課題を残すが、単婚化により、姦通の発生、結婚の固定化・永続化、父親による娘の結婚決定、買売春の成立などに至ったことを対比的に検証する。

 最後に[II]「婚姻の具体的形態」では、通いを経た妻方居住を基本とした婚姻居住のあり方が、一〇世紀以降妻方居住を経た独立居住へと変化したことを示し、儀式婚の成立と合わせて、婚姻の家父長制的変質として理解する。

 以上、本論文は、体系的な構想力のもとで多様な古代史料の検討を行ない、日本古代の婚姻のあり方を対偶婚として位置付け、その具体的形態と歴史的展開を浮き彫りにしている。その膨大で体系的な作業は、個別的実証の次元を越える面をもっており、関口氏が高く位置付ける先行の高群逸枝『招婿婚の研究』に、今日の研究段階の地平から迫るものといえよう。本論文を得たことによって、古代史の中でもとくに婚姻史・家族史・女性史の研究が今後いっそう進展することが期待される。

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