close

吉村武彦,「日本古代の社会と国家」


東京:東京大学文学博士論文,1997.9.8。


審查委員:佐藤信、五味文彦、白藤禮幸、加藤友康、神野志隆光


論文摘要


 本論文は、大化前代の国土支配の特徴と政事(まつりごと)原理を解明し、律令制国家の成立にともなう社会編成の仕組みと百姓支配、そして土地政策と土地所有論の特質を究明しようとしたものである。第一に、大化前代における国土統治と古代王権の政事原理を再現し、氏(うじ)名の継承と仕奉(しぶ)の関係および新帝即位における手続きと官職との関係を明白にすること、第二に、律令制国家の成立にともなって編成された古代社会の身分・分業体系と百姓支配の特質の解明、そして第三に、律令制国家の土地政策の性格と土地所有の特徴、および田地耕営における賃租と初期庄園に見られる労働力編成の実態の分析をめざしている。本論文はこれらの課題にこたえるため、「序」と三部構成の本論からなる。

 「序」では、古代社会と律令制国家の成立に関する従来の研究を整理して、問題点と課題を提示した。第一節では、律令制国家の成立、古代王権の歴史と律令制について概観し、律令制支配の特徴に関する従来の見解を批判的に検討した。第二節では、古代社会論の研究に必要となる氏姓制・氏族制と生産関係に対する戦後研究の問題点を小括し、氏姓制度の歴史的位置と、ヨーロッパ的歴史とは発展のタイプを異にするアジア的古代社会の特徴を指摘した。第三節では、最初に「公地公民制」として捉えられてきた古代の土地制度論に批判を加え、その起点とされた大化改新詔第一項の論理構造を具体的に示した。そのうえで、一元的な土地支配論に代わる、日本独自の律令制国家における田制の特徴についての見解を簡明に述べた。

 第一部は、おもに大化前代における国土支配の特徴と政事原理の解明を意図している。第I章では、古代王権による大八島国統治の理念を明らかにし、古代貴族が国家形成の画期として地域行政組織の国県制と氏姓制度を重視していたこと、天下を治める(律令では「御宇」という)初代天皇の支配内容としては、人口調査・課役徴収と蕃国(任那国)による朝貢の必要性を認識していたことを示した。続いて、律令制導入以前の国土支配として、「山海の政」と称される山と海に対する支配が、国の支配と同じように重要であった事実を古事記の分析を通じて強調した。

 第II章は、「仕え奉る」(本論文では学術用語として「仕奉」の語を使用)という行為に注目し、これまで通説であった氏の「自動的世襲説」ではなく、連系の氏は世々の王権に対する代々の「仕奉」の事実に基づいていることを明らかにした。また、臣系の氏は建内宿禰の系譜に連なることにより官職の地位を得ていたことも明白にした。また、王位継承時の新帝の即位には群臣の推挙が必要であり、新しく即位した国王によって新たに群臣が任命される過程をはじめて究明した。

 第二部は、律令制国家の成立にともなう社会編成の仕組みと百姓支配の特徴についての論考からなる。本論文では、治天下の王(天皇)の統治政策の歴史的方向を、大化前代における王民制的支配から律令制にもとづく公民制支配への展開として理解している。第III章では、大化前代の氏(うじ)名を有する王民の特徴を述べ、王民の観念が拡大・変質したものとして、律令制下の統治対象である身分呼称の公民を捉えた。そして、公民の特徴を課役制との関係で考察するとともに、律令制下の王民のあり方を夷狄との比較で分析した。

 第IV章では、律令制時代の社会関係を構造的に解明するため、律令制の分業体系を明らかにし、良賤制・公民・王民の諸特徴を説いた。全体として、古代社会における最初の人格的支配隷属関係である奴婢制の歴史的意義を軽視すべきではないことと、奴婢制に古代社会の規定的役割を認めた日本型奴隷制論における問題点を述べた。律令制国家の経済的基礎をになったのは、一般の百姓であり、百姓の生業を重視すべきことを指摘した。

 第V章第一節は、戸籍支配の前提に百姓の土地緊縛があることから、五保と兵士を中心とする在地の支配秩序の編制を分析した。さらに通説の「土断法」の理解に批判を加え、百姓の浮浪・逃亡問題に対して、8世紀では本貫地主義の立場が貫かれていることを明らかにし、この視点から新たな法令の解釈を試みた。第二節では、日本戸令が田令・賦役令と内的関連をもつ構造が中国の律令法の体系に淵源することを示し、賦役と関係する戸政研究の必要性を叙述した。

 第三部は、律令制国家にかかわる土地政策と土地所有、田地耕営における労働力編成に関する論考の四章からなる。第VI章は、8世紀の律令制国家の土地政策の基本的政策を公地制、厳密には公田・公地制という学術用語に括れる学説を提起した。これはいわゆる一元的な「公地公民制」や「公田公民制」とも異なる。歴史的用語としては、王臣家・豪民などの階層の耕地拡大への対応策として現われ、墾田永年私財法の実施以降に見られる「公地」の語の内容に着目した学説である。この公地の内実は、公田を核とし民要地と認識された百姓の生存に必要な農桑地であり、「公私共利」の地を含む土地である。この公田・公地制が、日本的な律令制的土地政策の実現形態であったことを明示した。

 第VII章は、国家的土地所有論の視点から律令制国家の土地所有の体系的把握をめざした章である。日本田令の分析から唐令との比較研究を行ない、私的所有が発展せず、社会的分業が未発達である日本社会では、土地所有をめぐっても人格的支配・隷属関係の性格を刻印されていることを分析した。日本では、身分制を基本に班田制と課役体系がつながっていることから、戸令を軸として田令と賦役令が連関する構造が見られることを明白にした。

 第VIII章では賃租の実態を究明しようとした。最初に、従来の賃租に関係する大宝・養老令文に関する研究の問題点を検討し、大宝令に賃租の語が存在した証左がないことを指摘した。賃租も永売も不動産売買の一種で、買い戻し条件付き売買が売買一般の観念に含まれていたことを述べた。そして、賃租料には売買時における土地価に対する利息的性質が強く、後払いの租料は前払いの賃料に利子を加えたものであることを実証した。

 第IX章は東大寺領越中・越前庄園を対象に、初期庄園に見られる労働力編成の特徴を研究した章である。越中庄園の経営には、神社・神田を介して在地共同体との密接な関係が見られた。ところが、越前庄園でもこの特徴が部分的に見られるが、地子制による経営の面が強くなる。越中庄園のような庄園経営と在地共同体との結合が、初期庄園経営に安定化をもたらしたと推定される。この時期の共同体と百姓の個別経営との関係を明らかにするために、水稲耕作における農繁期の労働力編成を示す「魚酒」関連の史料を集成し、農繁期に魚酒を利用する「雇庸」労働の仕組みとして新たに魚酒型労働の概念を提起した。そして、当該期の百姓の農業経営が個別生産にもとづく「個別経営」によっていることを明確にした。

 以上、本論文では三部に分けた論考から、古代王権と国家による統治政策と政治基調の研究を通して、古代の国土支配と政事原理、身分制にもとづく社会編成と支配の特徴、土地支配と田地耕営の実態に迫ろうとした。


審查摘要


 吉村武彦氏の論文『日本古代の社会と国家』は、「大化前代」から平安時代前期にかけての日本古代における、王権の支配原理、律令制国家による人と土地の編成がもつ歴史的特質を明らかにした、基本的な研究成果である。その研究の特徴は、実態としての社会と制度としての国家の両者を展望しながら、社会と国家の解明に必要な基本的事項に関する実証的検討を積み上げ、それぞれの古代的特徴を明らかにすることを通して、全体的な古代史像の見通しを提示したところにある。

 序「古代社会と律令制国家の成立」では、本論全体にわたる諸課題を提示しつつ、王権と律令制の関係、律令制支配の特徴、氏姓制・氏族制と生産関係、「公地公民制」論などをめぐる研究史を批判的に整理する。

 第一部「大化前代の国土支配と政事」では、「大化前代」における国土支配の特徴と政事原理を解明する。まず、『古事記』『日本書紀』にみられる大化前代の国土統治観をさぐり、王権支配の上で国県制・氏姓制が重視され、「治天下」の実態として人口調査・課役徴収と蕃国(任那)からの朝貢が必要とされたこと、そして「山海の政」と呼ばれる山と海に対する支配の重要性を説く。さらに、王権への「仕奉」(仕え奉る)という支配・従属関係をさぐり出し、連系の氏(ウヂ)が世々の王権への代々の「仕奉」という関係にもとづいて成立し、臣系の氏が建内宿禰系譜と結びついて官職を得るという構造を明らかにした。また王位継承にあたり、新帝即位には群臣による推挙が必要であり、かつ新帝によって新たに群臣が任命されるというあり方を究明している。『古事記』『日本書紀』の支配観と実態としての支配とを直結することはできないが、「山海の政」など当該期の統治観の特徴によく迫っており、とくに王権への「仕奉」という支配・従属構造や、王位選定に果たした群臣の位置付けを鋭く解明した点は、大きな達成ということができる。

 第二部「律令制国家の百姓支配と社会」では、律令制国家による社会編成の仕組みと百姓支配の特徴を解明する。「大化前代」における氏(ウヂ)名をもつ「王民」が拡大・変質したものとして、律令制下の「公民」をとらえる。そして律令制国家の経済的基礎をになったのは個別的経営を営む百姓であるとしつつ、一方で奴婢など賤の身分制度が古代の社会編成において重要な役割を果たしていたことを指摘する。また、百姓支配の前提として百姓の土地緊縛があったことを示し、浮浪・逃亡問題に対して8世紀には本貫地主義が貫かれていたことを説く。王民制的支配から律令制下の公民制支配への展開を簡明におさえ、律令制国家の百姓支配の様相と特徴を広く明らかにしており、奴婢の存在を重視する日本型奴隷制論を排した論旨は明快である。

 第三部「律令制国家の土地支配と田地耕営」では、律令制国家の土地政策と土地所有、田地耕営における労働力編成について論じる。8世紀の律令制国家の土地政策を、王臣家・豪民の耕地拡大に対応して743年の墾田永年私財法以降にみられる「公地」(百姓農桑地と山川藪沢)の語に注目し、従来の一元的な「公地公民制」とは異なる「公田・公地制」という概念でとらえる。土地を国家管理下に置くのではなく、百姓の生業を保護するための土地政策とみるのである。また、私的所有が展開せず、社会的分業が未発達な古代日本においては、班田制にみられるように国家的土地所有に人格的支配・隷属関係が刻印されていると指摘するなど、広い視野から土地支配の枠組みを構成する。さらに田地耕営をめぐって、水稲耕作の農繁期に「魚酒」を提供して労働力を「雇傭」する協業の仕組みを明らかにし、魚酒型労働の概念を提起するなど、その実態について独自の知見を示している。

 以上本論文は、精密化しかつ個別分散化しつつある日本古代史研究に対して、実証的手続きをとりながら一貫した古代の社会・国家像を提示するという基本的視点を貫いた研究成果といえよう。今日の古代史研究が全体的・総合的な視野を失いつつあるとすれば、吉村氏のこうした姿勢と論旨展開は、これからの研究に一つの指針を示すものとして高く評価されよう。本論文が対象とした時代はほぼ5世紀から9世紀までに限られており、体系性の面ではさらに前後の時代にわたる関説が望まれるが、個別的実証の上に古代の社会・国家像を再構成していく上で、本論文は研究に着実な基礎をもたらすものと考える。


 

arrow
arrow
    全站熱搜

    phc85123 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()