森公章「古代日本の対外認識と通交」


東京:東京大学文学博士論文,1999.6.14。


審查委員:佐藤信、石上英一、大津透


內容摘要


 本論文は古代日本の外交のあり方を理解するために、なお論究不充分な点が窺われる外交のシステム面、外交意識、使人の迎接(賓礼)、国書、外交機関・機構など、からの検討を試みたものである。全体を三部で構成し、第一部「古代日本の対外認識」では、従来あまり考究されていない対唐観の問題を中心に、事大主義的立場と日本中心主義的立場の二重構造の対外意識、遣唐使の国書問題、在日外国人の存在形態や彼らに対する意識などの分析を行った。第二部「外交政策と通交」では、律令国家の対外意識が形成される七世紀後半~八世紀を中心に、殆ど研究のなかった古代耽羅と日本の通交の様相、また百済の役をめぐる東アジアの動向などを事例として、日本の外交政策や外交姿勢を探っている。第三部「外交儀礼」では、大宰府および到着地、難波での外交儀礼に考察を加え、外交機関とその機能の運用の様子、それらの形成過程とその後の展開を明らかにし、外交機構の全体構造を考える手がかりを得ようとした。

 第一部第一章「天皇号の成立をめぐって」は、天皇号の成立時期に関する諸説を整理し、君主号が機能する場として外交の際の君主号のあり方という新しい視点から、七世紀末の天武・持続朝成立説を支持すべきことを述べている。またその検討の過程で、日本は対唐外交に際して、漢語の正式な君主号たる天皇を用いていない点を明らかにし、朝鮮諸国と唐に対する外交の進め方の相違を示唆した。

 第二章「古代日本における対唐観の研究」は、唐との外交の基調をなす日本の対唐観を、日・中両方の史料から検討し、従来の通説であった対隋・唐外交における対等外交の指向、遣唐使は国書不携行という考え方に疑義を呈したものである。第一章の示唆を手がかりに、対唐観として事大主義的立場と日本中心主義的立場を析出し、実際の外交の場では事大主義が顕現し、対唐外交は朝貢外交であったこと、国書携行の可能性と書状形式の国書提出を推定した。これらの点は、従来の通説によって立論されてきた「小帝国」「小中華」としての日本という位置づけに再検討を迫る論点を呈するものとなる。

 第三章「古代における在日外国大観小考」は、従来東漢氏・西文氏・秦氏など五、六世紀の渡来人の検討が主であった渡来人研究の分野において、八世紀以降の日本に居住した人々で「○○人」と外国名を冠して把握される者の存在に着目し、彼らを在日外国人としてとらえるべきことを述べ、その存在形態や法規・待遇、そして古代日本人の在日外国人に対する観念を明らかにしたものである。七世紀後半~八世紀の律令国家の確立・充実期においては、在日外国人の技能・学芸の国家への利用が図られ、また律令国家の「国際性」もあって、特に顕著な外国人観は窺われないが、九世紀には在日外国人を外国人として意識する観念が顕在化し、在日の形態にも変化が起きることを指摘した。

 第四章「袁晋卿の生涯」、第五章「大唐通事張友信をめぐって」は、各々八世紀、九世紀の在日外国人の具体例を考究しており、第三章の補論となるものである。第四章では天平度の遣唐使帰国とともに来日した唐人袁晋卿の日本での生活をいくつかの側面から探求し、在日外国人の文化面での貢献とともに、彼らに対する日本人の意識は如何であったがという問題を検討した。また学芸面で大いに依存された在日外国人の弟子たる日本人による学芸の維持が可能になると、九世紀には在日外国人の存在形態や外国人観が変化するとして、第三章の見通しを支持している。その変化の具体的事例が第五章であり、大宰府の大唐通事張友信に着目し、九世紀後半における交易主体と日本への定着を前提としない唐人来航の様子を描き、十世紀以降の唐・宋商人の先駆的形態を明らかにした。この中では大宰府の大唐通事の実質的な役割は張友信を嚆矢として、以後益々重要になることを指摘し、第三部第二章の大宰府の外交機能の変遷を考える視点を得ることもできた。

 第六章「平安貴族の国際認識についての一考察」は、平安貴族の対外認識の中での日本中心主義的立場の行方という視点から、第二章の対唐観における二重構造が九世紀中葉~十二世紀にどのように変化していくかを探ったものである。十世紀初の三善清行の意見十二箇条、十一世紀末~十二世紀の元永元年勘文や承暦度の国書受納問題、十二世紀後半の九条兼実の外交意識などを定点とし、各々の背景となる対中国観の様相を整理した。「国風文化」の中で日本の学芸・技能が中国と対等ないし凌駕するという見方が確立し、日本中心主義的立場が強まり、またすべての外国を「異国」とする観念の成立もあって、対中国観の変容を俟って中世の神国思想や三国世界観などの外交意識が成立するという見通しを示している。但し、実際の外交の場では日本中心主義的立場が表明されることはなく、二重構造の外交観が存続するのであった。

 以上の第一部の考察により、従来あまり検討されてこなかった古代日本の対中国観に関する通時的な見通しを呈することができたと思われる。

 第二部第一章「耽羅方脯考」、第二章「古代耽羅の歴史と日本」は、主に七世紀後半~八世紀の耽日関係を叙述したものである。第二章では高麗に併合される十二世紀初までの史料に現れる耽羅の歴史を整理し、半島国家の属国である期間が大部分を占めたその歴史の中で、特に六六〇年百済滅亡により「独立」を達成した耽羅の動向に注目し、七世紀後半の東アジアの激動期における外交活動の様子や日本・朝鮮諸国との関係を詳述した。その中で、六六三年白村江の敗戦以降における日本の外交姿勢として、半島を新羅に委ね、その新羅から「朝貢」を得ることで満足し、消極的な関与に留まったこと、したがって耽羅からの対新羅の支援要請に応じることができなかった状況などを説明している。第一章は『令集解』古記や天平十年度周防国正税帳に現れる耽羅関係記事を手がかりに、八世紀の耽日関係の様相を描いたものである。当該期の耽羅は統一新羅の属国となっており、この時の耽羅方脯入手は正式な国交によるものではないことを明らかにし(但し、耽羅との民間交易存続の可能性は考慮に留めている)、合せて宝亀度の遣唐使の耽羅島抑留事件と新羅との交渉による解決のあり方を見た。

 第三章「朝鮮半島をめぐる唐と倭」は、第二章の検討をもとに、六六三年白村江の敗戦に至る日本の外交のあり方について、外交方針や対外政策の様相、それを支える国家機構の構造などに関して、唐との比較・対照を行ったものである。日本の外交の無策ぶりや国家的軍事編成の貧弱さなどを抽出し、律令国家形成の未熟な段階を示し、合せて白村江の戦以後の律令国家確立の道程を概観した。

 以上の検討の中で、日本外交の政治性の薄さや国際情勢把握の不充分さを指摘し、その背景として文物輸入という「モノ」への関心、体系的な外交儀礼・システムの欠如、一国中心主義外交という特色を明らかにし、律令国家成立以降もこうした「外交ベタ」が継承されるとの展望を得ることができた。

 第三部第一章「古代難波における外交儀礼とその変遷」は、延喜玄蕃寮式の記載を手がかりに、これが難波における外交儀礼を規定したものであることを論証し、その内容・意味を検討したものである。さらに難波での外交儀礼を古代日本の外交儀礼全体の中に位置づけて考察を加え、また律令制都城への外交儀礼の包含の過程とその意義を論究した。

 第二章「大宰府および到着地の外交機能」は、古代日本の外交において、まず外国人と接する場所である大宰府およびその他の到着地の外交機能を検討したものである。筑紫大宰に由来する大宰府の外交機能は、当初外国使節の来着を報告するのみで、これは在地豪族によるヤマト王権への外国使節到来告知の古い外交形式を継受したものであった。しかし、八世紀中葉以降の日羅関係の悪化に伴い、大宰府その他で外国使節の来由確認を行うことが必要になり、八世紀末の国書開封権付与をめぐる問題、またそれ以後の外交機能の変遷などが生じることを明らかにしている。大宰府に関しては通事なども揃っており、外交権能の発動が可能であったが、その他の到着地ではそのような設備が不充分であり、中央からの使者派遣に依存する姿を展望した。

 この大宰府と難波の外交儀礼・外交機能の分析をもとに、今後さらに外交機構の全体像を検討していくことが課題である。

 以上、本論文では外交のシステム面の諸相から、古代国家の形成過程や律令国家の特質の一端をも探ろうとする関心があり、その一部である古代日本の外交のあり方を些かなりとも解明できたのではないかと考える。


審查意見摘要


 森 公章氏の論文『古代日本の対外認識と通交』は、七世紀から九世紀にかけての日本古代における外交をめぐって、対外認識、外交機能や外交儀礼の構造的特質とその変遷を明らかにした研究成果である。研究の特徴は、実証的方法を通して古代日本の対外認識について論究を深めた点と、運営実態に即しながら外交システムの特質に迫るところにあり、それらを通して、古代日本の外交について幅広い歴史的展望を提示している。

 第一部「古代日本の対外意識」では、まず外交の場における君主号の検討から、天皇号の七世紀末天武・持続朝成立説を支持する。ついで、古代日本の対唐観を分析し、唐を大国とする「事大主義的立場」と日本を主張する「日本中心主義的立場」とが共存しながら、対外・対内それぞれの場で使い分けられていた二重構造を明らかにする。古代貴族の対外観を鋭く追求して説得力ある論旨であり、古代日本が「小中華帝国」をめざしたとする通説的見解に対して新視点を提示することに成功している。また、古代日本に居住した唐人・新羅人など「在日外国人」の存在形態を検証し、七世紀後半~八世紀には「在日外国人」に対する外国人意識が顕著でないのに対し、九世紀には外国人意識が顕在化することをあとづける。さらに、平安貴族の中に「日本中心主義」が確立するという推移を明らかにする一方、実際の外交の場ではその日本中心主義が表明されなかった外交観の二重構造を指摘する。従来あまり検討されなかった古代日本の対中国観における二重構造を明確にし、その歴史的変遷の見通しをも提示した意欲的で有益な研究成果といえよう。

 第二部「外交政策と通交」では、まず十二世紀に高麗に併合されるまでの耽羅(韓国済州島)の歴史に注目し、とくに七世紀後半の東アジア激動期における耽羅と日本・朝鮮諸国との関係から、逆に日本の外交姿勢を検証する。また、白村江の敗戦に至る日本外交のあり方を唐のそれと対比・検討し、日本の外交や国家的軍事編成の未熟さを浮き彫りにした。こうした検討を通して、古代の日本外交における文物輸入に偏った政治性の低さ、体系的な外交儀礼・システムの欠如、国際情勢把握が不十分な-国中心主義外交などの特色を明確にしたことは、評価し得る成果である。

 第三部「外交儀礼」では、難波における外交儀礼を外交全体の中で位置づけるとともにその変化をたどり、また、通事などをもつ大宰府の外交機能が、他の外国使節到着地とは異なって、外国使節の来着告知から八世紀末以降に国書開封権付与に対応して機能を変化させていく様相を見通す。いずれも、外交儀礼や外交機能をめぐる特質とその変遷について、明快な見通しを示して今後の研究の発展につながる論考ということができる。

 以上、本論文は、古代日本の外交における対外観、外交システム機能、外交儀礼などについて、幅広くその構造的特質と七世紀から九世紀に至る変遷を解明している。とくに、古代国家の形成過程や国家的特質とかかわらせながら、対外観における二重構造や外交システム機能の未成熟性に関して明快な論旨を展開したことは、研究史上意義のあることといえよう。やや論点が広範囲に及ぶことから、さらに国家論・王権論とからめて論理的な深化と展開が望まれるものの、古代日本の外交に迫る上で独自の達成を果たした点で、本論文は今後の日本古代史研究に有益な基礎をもたらしたものと評価できる。

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