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倉本一宏,「日本古代国家成立期の政権構造」


東京:東京大学文学博士,1997.11.10。


審查委員:佐藤信、加藤友康、五味文彦、早乙女雅博、月本雅幸


論文摘要


 日本で最初の体系的国家である律令国家の成立過程の様相と、その際の支配者層の構造を解明することによって、日本古代国家自体の構造を解明することの第一歩とした。また、日本古代国家の成立を探ることによって、その後のこの国の様々な特徴、すなわち、天皇制の存続の問題とか、日本的な政権構造の問題とか、日本的な意志決定の方法の問題などを明らかにしていくに際して、突破口を見出す手掛かりになるのではないかと考えた。

 「第一部 氏族合議制の成立と展開」においては、大宝律令の成立によって完成した日本古代国家の特質を解明する前提として、大化前代における氏族合議制の存否を確認し、その構造と成立の背景を考察した。また、その成立に際して影響を与えたと思われる朝鮮三国の政治体制を推定した。

 「第一章 氏族合議制の成立--[オホマヘツキミ-マヘツキミ」制--」では、大化前代の大和王権上部の政治構造像を再構築した。「大連」という職位が実在しなかったことを推定した上で、六世紀前半の欽明朝に、国内における王権の分裂、国外における対朝鮮外交の破綻という「非常時」の中、参議、侍奉、奏宣にあたった職位としてのマヘツキミと、その上部にあってマヘツキミを代表し、合議体を主宰する職位としてのオホマヘツキミとが成立したことを明らかにした。また、マヘツキミによる合議体は、六世紀の間は畿内有力豪族の代表者一名ずつによる氏族合議体としての性格を有していたが、推古朝以降、隋帝国の中国統一と高句麗遠征という国際情勢に対処するため、蘇我系官人が合議体構成員の三分の一を占めるに至って、その性格が変質していったことなどを見通した。

 「第二章 朝鮮三国における権力集中」では、「オホマヘツキミ-マヘツキミ」制の源流を探るため、朝鮮三国の政治体制を考察した。朝鮮三国のいずれもが、貴族合議体の成立、合議体を統括する地位の成立、国王近侍官の成立という段階を経て権力の集中を図ったこと、六世紀前半の倭国が、特に百済との五経博士を介した交渉を通して、朝鮮三国の政治体制に関する知識を入手し、それに大きなヒントを得たと思われることを推定した。

 「第二部 律令制成立期の「皇親政治」」においては、「皇親政治」像を再構築することによって、日本で最初の完成された古代国家である律令体制国家が成立した時期における政治体制の様相と性格、およびその意義を、より的確に把握することを目指した。

 「第一章 天武天皇殯宮に誄した官人」では、天武天皇殯宮に諸官司の誄を奉った諸臣(マヘツキミ層)官人は、従来考えられてきたようにそれぞれの官司の長官とは考えられず、それぞれの官司の次官的地位にある官人か、一部局の長、あるいはそれらと同格の地位にある官人であることを明らかにした。

 「第二章 律令制成立期の皇親」では、真人姓氏族の性格を考察した上で、律令制成立期の皇親の族姓的範囲と系譜、国家的把握の様式、官僚化の時期と背景を推定することによって、皇親の実像を明確化した。律令制成立期においては、欽明の次の世代以降に分かれて、天武朝まで政治的に生き残ってきた王統の者のみが、特殊官僚層たる皇親として活動したこと、名帳に登録された皇親は、一個の集団として国家に把握されていたことを推定した。また、皇親官僚制成立の画期が天武朝であったことを明らかにし、その意義を、大王権力の一部を執行するための、カリスマの血縁的賦与という点に求めた。

 「第三章 律令制成立期の政治体制」では、律令制成立期の政治体制を解明した。まず、天武朝の皇親冠位は大宝令制位階よりも相対的に高かったことを明らかにした。次いで、天武朝の行政機構を概観し、すべての官司が並列的に天武に直属していたこと、それらは「大政官」と総称され、皇親・マヘツキミ層を構成員とする国政議定体が存在していたことを推定した。次に、マヘツキミ層の政治的存在形態を考察し、それらは各官司の持つ職掌を分掌したり、臨時の使節に拝されることによって、律令制の建設に従事したことを解明した。さらに、律令制成立期の官人任命方式を推測し、ツカサ(官司・使節)に官人を任命する際には、「…の官(使)に拝す。」という詞を宣り聞かせることによって任命するという方式が採られていたこと、そして、ツカサに拝されたマヘツキミは、「…官(使)のマヘツキミ(卿・大夫)」と、同じく皇親は、「…官(使)のキミ(王)」と呼称されたであろうことを推定した。最後に、諸史料に見られる官職名を分析した。

 「第四章 律令制成立期の「皇親政治」」では、天武朝の「皇親政治」の具体的様相の全体像を示し、あわせて律令制成立期にそのような政治体制が現出したことの意義を考察した。律令制成立期の「皇親政治」とは、激動の国際情勢の只中、壬申の乱終結の直後という「非常時」の中で支配者層が結集し、早急に律令体制国家を建設するために、皇親が特殊官僚層として国政のすべての部門を統括し、マヘツキミ層がその下位にあって国政諸部門を分掌することによって現出した、特殊的、過渡的な政治体制であったと意義付けた。

 「第五章 「皇親政治」および氏族合議制の終焉」では、浄御原令の完成と共に「皇親政治」がその歴史的役割を終え、崩壊し始めたこと、同様に、六世紀以来のマヘツキミ層による国政議定の伝統も、その意義を変質させることとなったことを明らかにした。

 「付章一 天智朝末年の国際関係と壬申の乱」では、倭国の政権担当者が、東アジア「内乱の周期」の最終局面に際して、どのように対処していったかを考察し、その対応が壬申の乱に及ぼした影響を推定した。壬申の乱は、倭国内のいくつもの国の「国府」に、対新羅戦用の農民兵が、在地首長や国宰に率いられて集結していた時点で勃発し、それを自己の軍内に組み込んだ大海人が、それらを的確に配分して勝利を収めたとの仮説を得た。

 「付章二 古代新羅の官司制成立」では、天武・持統朝の倭国が頻繁な交流を行なった新羅において、官司制がどのような方式で成立したかを考察した。そして、七世紀末の倭国の支配者層は、官司制の発達段階と支配者層の様相がもっとも近似していた新羅の官司制の成立過程を導入することによって、律令制的な官司体系を成立させたものと推定した。

 「第三部 律令国家の政権構造」においては、従前の研究において律令国家の支配者層の中に存在したとされてきた、専制君主を志向する天皇権力、および天皇の権力基盤としての「皇親勢力」、天皇に対抗して自己の政治基盤を拡大しようとする「貴族勢力」、および「貴族勢力」全体の総意を結集するための議政官組織、のそれぞれに再検討を加え、次いで、この問題に深く関わる皇親、および大臣の政治的位置付けを考察し、王権と藤原氏との関係を中心に、律令国家の政権中枢の様相を推定した。

 「第一章 律令貴族論をめぐって」では、既往の「貴族制論」が律令国家における天皇と貴族との関係に関する諸見解の前提としていた諸点(律令諸条文と、藤原宮子大夫人号事件)を再検討し、それらのいずれもが両者の権力の優劣を考察する際のメルクマールとはなり得ないことを明らかにし、一個のまとまった政治勢力としての「貴族勢力」の存在や、それと天皇との対抗関係の存在を、実体としては存在しないものと考えた。

 「第二章 議政官組織の構成原理」では、日本律令国家において日常の議定が最終的な政策に影響力を及ぼしたか否かを知るために、第一に、議定に参加し得た官人の範囲を日唐で比較し、第二に、日常的に議定を行なった議政官組織の構成原理を解明した。日本では広範な官人層を集めた国政議定はほとんど行なわれず、議政官による議定も、全貴族層の意志を代弁したかは疑問であることを述べ、議政官に任じられるための要件を明らかにした上で、蔭位制の運用状況を考察した。日本蔭位制そのものが、藤原氏にとって有利な条件となるように唐制を改変して制定されたであろうこと、一方、マヘツキミ層氏族は、律令制成立後も自らが特権階層の氏族であり続けることを条件として、藤原氏による太政官政治領導を支配者層の総意として容認し、その下に結集することに妥協したと推測した。

 「第三章 律令制下の皇親」では、律令制下における皇親の実態を解明することを目指した。皇親は、律令制成立当初における諸臣の高位者の少なさという偶然の状況の中で、その位階に相応しい官職に相当させられたものの、王権を囲繞して擁護する「天皇権力の藩屏」たる役割など負わされ得るはずはなく、逆に律令国家の権力の中核的な部分からは、無能で危険な「前時代の遺物」として認識されていたであろうことを推定した。

 「第四章 律令国家の政権中枢」では、大臣と内臣、太上天皇・知太政官事・藤原氏の大臣という視点から、律令国家の権力中枢の政治勢力の構造を推定した。藤原氏は、律令制成立の時点で天皇家に准じる特殊な地位を獲得し、王権と相互に補完し合うことによって、太政官政治を領導したことを明らかにした。律令国家の権力中枢は、天皇家と藤原氏とのミウチ的結合体なのであり、旧豪族の代表による氏族合議体や、天皇権力に対抗する「貴族勢力」、皇権の「藩屏」としての[皇親勢力」は存在しなかったことを推定した。

 「付章 古代氏族ソガ氏の終焉」では、大化前代には唯一の大臣氏族であり、七世紀の政治史の一方の主役であった蘇我(石川・宗岳)氏の没落の軌跡を辿ることによって、「古代貴族の終焉」の一つの具体的な事例を示した。


審查摘要


 倉本一宏氏の論文『日本古代国家成立期の政権構造』は、6世紀から8世紀前半にかけての古代国家成立期における政権構造の実態とその歴史的特質について、独自の視点から分析した基礎的な研究成果である。その研究の特徴は、従来から論じられてきた天皇専制か貴族政権かという二者択一の水掛け論的な論争の枠組みから離れて「政権構造」を明らかにしようとした点と、政権をめぐる基本的事項に関して制度・実態の両面から実証的検討を積み上げ、古代国家成立期の政権構造について一貫した見通しを提示した点にある。

 第一部「氏族合議制の成立と展開」では、6世紀前半の倭国で、王権の分裂、対朝鮮関係の破綻といった危機的状況に際して、朝鮮三国から政治体制を学びつつ大和王権を構成した畿内有力豪族が結集して「オホマヘツキミ(大臣)-マヘツキミ(臣・卿・大夫)」という氏族合議制政権が成立したことを説く。行論の過程で、『日本書紀』を史料批判して「大連(オホムラジ)」の実在性を否定したり、さらに朝鮮三国における権力集中のあり方を詳しく分析するなど、新たな知見をもたらしている。

 第二部「律令制成立期の『皇親政治』」では、7世紀後半の天武・持統朝の国家体制を検証する。まず朱鳥元年(686)の天武天皇の殯宮で誅した中央諸司の官人(諸臣)たちについて、『日本書紀』の史料批判を徹底して通説を批判し、各官司の長官でないことを指摘、進んで天皇権力が確立した天武朝において皇親を「特殊官人層」とする皇親官僚制が成立したとする。律令制成立期において、天武のもとに並列した諸官司においては、上部に立つ皇親(王-キミ)の統括下に諸臣(卿-マヘツキミ層)が実務を分掌するという体制があったことを推測する。こうした天武朝の「皇親政治」は、浄御原令・大宝令の成立とともに終焉を迎え、皇親・マヘツキミ層の地位は大きく後退する。皇親は、大宝律令の成立により「特殊官人層」としての歴史的役割を失って一般官僚層へと転落し、またマヘツキミ層は、五位以上の官人を出し得る氏族として存続する一方、天皇家と藤原氏による太政官政治領導下に位置づけられ、氏族合議制は終焉したというのである。天武朝の「皇親=特殊官人層」論など倉本氏の個々の論点には懐疑的な見解の余地もあり得ようが、「皇親政治」の語を曖昧なまま使用しつつ皇親の性格を一元的に天皇擁護勢力と見てきた従来の研究に対して、律令制成立過程上に「皇親政治」を歴史的に位置付ける倉本氏の明快な所説は、今後の研究に方向を示す建設的な提言といえよう。

 第三部「律令国家の政権構造」では、まず、天皇権力対「貴族勢力」という水掛け論となる二元的枠組みを排し、実態として天皇とミウチ的に結んだ権臣の重要性に注目する。ついで議政官の構成原理として、一定の氏族に属し、高位者で重要な官職に就き、王権と親しい関係にある官人という原則をさぐり、高位となる上で蔭位制を利用した藤原氏が優位に立った事情を明らかにする。マヘツキミ層は、天皇と結び付いた藤原氏による太政官政治領導を受入れて支配者層として結集し、また皇親は、律令制成立後は位階昇進のないまま「無任所皇親」として政治的地位を低下させた。そして律令国家の政権構造は、持統系の天皇家と藤原氏がミウチとして結合して中枢を形成し、その周囲に畿内貴族層や皇親が支配階級として結集していた、とするのである。ここでも個別の実証的論点には異論もあり得ようが、律令制下には一元的な「貴族勢力」や氏族合議体はすでに存在しなかったという論旨は説得力をもっており、また政権構造論も簡明である。

 以上本論文は、天皇専制か貴族政権かという従来の論理構造から離れ、実証的検討を積み上げることを通して倉本氏の構想する枠組みから古代国家成立期の政権構造について一貫した見通しを示した研究成果である。実証的検討が倉本氏の枠組み内で進められるという論述手法はやや気になるものの、古代史料の史料批判や古代朝鮮半島諸国の歴史像への接近を通して多くの新知見を提供しつつ、全体として古代国家成立期の政権構造についてきわめて明快な解答を提示することに成功している。個別分散化して全体的・総合的な視野を失いつつある面をもつ日本古代史研究に対して、本論文は、これからの研究に一つの指針を示す研究成果として高く評価されよう。


 

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