『漢人社会の礼楽文化と宗教 神々の足音.はじめに』


 


鄭正浩


 


 音楽学者黒沢隆明は、その著『音楽起源論』の冒頭に、東洋音楽の泰斗である田辺尚雄の揮毫になる『呂氏春秋』の一節を掲げる。


  音楽之所由来者遠矣、生於度量、本於太一。


 これを解説して、「『呂氏春秋』は、前三世紀の呂不韋の文集。〈音楽の由って来る所は遠い。度量に生じ、太一(宇宙原理)に本づく〉という音楽の本質を述べた名言である」とする。ただし、ここで呂不韋の言葉とされているのは、正確には呂不韋とその門下によって編纂された『呂氏春秋』の大楽篇にある言葉で、「度量」とは音の規則つまり音律を指しているものと思われる。他にも音律篇・古楽篇では、天地自然の気から風が生じ、季節ごとの風と陰陽変化の原理によって十二律が定められるとする思想が述べられている。この「律呂」の思想は、単なる音律の解説に止まらず、天地自然の変化から人間の営為まで、すべてこの原理によって解釈され得るとするものである。このように、道家思想における「道」──普遍的真理──が、『呂氏春秋』では律呂の原理として表されているのである。

 本研究は、この普遍的な真理に通ずる音楽の本質について考察することを出発点とし、そこから展開される儒家的・道家的音楽観が、漢人社会にどのような礼楽文化をもたらし、どのような祭祀儀礼を形成させたかを見るものである。

 従来、中国古代の儀礼文化についての研究は古典に依拠するものが多く、しかも儒家思想と関連づけて儀礼の詳細やその思想的な意義を追究するものが殆どであった。本研究は「礼楽文化と宗教」を主題とし、音楽と儀礼の起源を明らかにするとともに、両者の融合によって発生した礼楽文化が、神秘思想や宗教とどのように関わりながら、漢人社会で展開してきたかについて見る。また、古来の自然神信仰や媽祖・瑤池金母・無生老母を初めとする女神信仰の考察を通じ、人々が自然からどのような啓示を受け、母なる女神にどのようにして救いを求めていったかを伝承と祭祀儀礼の考察によって解明する。   

 一方、近世以来、儒教・道教・仏教の教義を受け入れながら発展してきた民間宗教において、扶鸞宣化から繁雑な斎?儀礼まで、祭祀儀礼は様々な発展・変容を遂げたが、これらもまた音楽・芸能・演劇と深く関わり、本土中国とは異なった環境にある台湾の漢人社会や東南アジアの華人社会において受け継がれていることを明らかにした。研究方法については多くをフィールドワークに負っており、本研究はその成果でもある。
本研究は、先行する内外の諸研究から多大な恩恵を被りながらも、古典的解釈に立つ従来の研究とは異なった視点から礼楽文化を見直そうとしたものであり、漢人世界周縁部における民間宗教を主たる対象とした調査・研鑽の所産である。微力ながら、本書の刊行によって斯界に貢献できることがあれば幸いである。

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